桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を読む
著 ni-to(ニート)
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*この文章は07年8月に発行した「適当ライトノベル読本第一号 特集-桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』」 に掲載したni-toの文章です。振り返って読んでみて、2章あたりとかは妥当性があるか自分で読んでみても少し疑問ですが。そのあたりの判断は読み手にゆだねます。こんなモノを書いているので、イベント等で見つけたらどうぞよろしくお願いします。
一章 桜庭一樹の発想とモチーフ
僕は、桜庭一樹という作家が、まずモチーフをとらえて離さない作家のようにみえる。一度、確かに得た発想や事柄は逃さず、何度でも繰り返し作品に使用し、その意味を深めていく。
桜坂「さらに面白いのは、僕と新城さんが別のアプローチでそこにたどり着いていて、そのうえ桜庭一樹さんが同じ場所に野生の勘でたどり着いている。三つの方法がまったく違うのに、たどり着いた場所が同じことですよね。それは本当にすごいですよ。」。
(東浩紀・『ギートステイトハンドブック』より)
桜坂洋さんが「野生の勘」と言うのと同じような意味で、僕は、桜庭一樹は霊感的・巫女的な発想力を持っているなぁと思っている。
●モチーフの反復と深化
例えばこの文章を読んで見てほしい
「ククル、このスメリアは、元々鉄の加工が盛んな国だったのよ。鉄をどう加工するか知ってる?熱い火にストローのような竹の器具で息を吹き込んで燃やし、その熱で形を整えていたの。だから、この国の男たちは、飛んでくる火の粉に目をやられて、片目になってしまう者が多かったのよ。
この国には昔から、火の石と呼ばれる不思議な石があって、火の力を存分に使うことができたの。その石をずっと守っていた精霊が、一つ目鬼よ。見て」
『アークザラッド』山田桜丸名義 頁231より
見覚えがあるような、ないような顔。それもそのはずだった。若き職工、豊寿の顔は忘れようにも忘れられない、あの幻、空飛ぶ一ツ目男その人であった。
『赤朽葉家の伝説』頁59より
『アークザラッド』(スーパーファンタジー文庫)は96年の山田桜丸名義の刊行である。一方、『赤朽葉家の伝説』は06年の作である。桜庭一樹の中に、「一つ目の男」というモチーフがかなり前からあったことが分ると思う。
桜庭一樹の手つきを見ていると「モチーフを大事に暖めておいた」というよりも、「発想や事柄をずっと忘れてない」という風に見える。「ずっと忘れず」作品世界とモチーフが近ければ同じモチーフが表される。何度も表され、または、時間を重ねることによってモチーフのイメージが深まっていく。
そもそもデビュー作『AD2015隔離都市 ロンリネス・ガーディアン』での大きなモチーフに「ピティフル・チルドレン」作中意で「かわいそうな子どもたち」というものがある。桜庭一樹は、その作品のほとんどが女性や子供が主人公の作品を描き、あるいは作品内の視線を向けている。女性や子供それに派生するような事象は、桜庭一樹がずっと持ち続け、たぶんこれからも手放さないモチーフなんだと思う。
それ以外にも反復されるモノはいくつかある。たとえば、blog後天性無気力症候群さん(*URL後記)で指摘されていることだけれども、いくつかの作品に「夜空に満天の星」という言葉が入ることがある。これはデビュー作『AD2015隔離都市』の改題前の名称である。これは「夜空に満天の星」というフレーズに愛着を持っている証拠だとぼくは思う。
ゴシック六巻では『推定少女』での銃撃シーンが再演され、『ブルースカイ』で登場した青年が『成年のための読書クラブ』でもとシンボリックな視点で見ればきりは無い。
●祈りきれない夜の歌
『少女には向かない職業』に登場する田中颯太は、『すたんだっぷ風太くん』の文を担当した桜庭一樹が、立つアライグマ風太を名前の由来としているので立+風で颯太だという話は知れた話だろう。
気に入ったモチーフがあれば、流行ものでもなんでも出自をきにせずに自分のモノにしてしまう、そういう軽快さが桜庭一樹の手つきにはある。
桜庭一樹は、作家の読書というネット上のインタビュー(*後記)でラジオドラマ脚本「祈りきれない夜の歌」(『永遠の10分遅刻』収録)が好きだと語っている。
「祈りきれない夜の歌」の物語はこういう話である。功一と春子の息子・泰司は障害を持って生まれてしまう。生まれつき歩くこと動くこと喋る事も出来ず、けれどもTVなどから言葉や情報が入ってくるので知識も論理性も持っている。けれども、しゃべることが出来ないので家族のだれもそのことは知らない。そこへフジコという借金の為家族が離散し、血のつながりの無い泰司の家に、泰司の世話をする為に姉として家族に加わる。フジコは歌手になる夢を「育ててあげるのだから」と諦めさせられ、夜な夜な泰司に罵詈雑言を愚痴る。そして愚痴り終わり眠る時には必ずほっぺにキスをするという、とんでもないツンデレである。ちなみに、フジコ役の声は奥菜恵である。
以降はその脚本からの抜粋である。
春子 よく聞いて。あなたに今必要なのは、そんな屁みたいなことでクヨクヨすることじゃないの。
功一 屁って。
春子 お金よ。ガツンと働いて。運命を見返してやればいいのよ。この子に必要なのも涙じゃない。まあ、あたしだって泣きたくなることはもちろんあるけど。それはなんの役にも立たないってわかってるからあたしは我慢する。お金なの。とりあえずほしいのは。実弾なのよ、実弾。
功一 実弾っておまえ。どこで覚えたんだ、そんな身も蓋もない言い方。
春子 泣いたりお祈りしたり、もううんざり。あんたのお母さんだってそうよ。泰司に拝んだってしょうがないの。お地蔵さんじゃないんだから。あたしたちはね、体が動くうちに働けばいいの。闇雲に。一生お金稼ぐの。この子のために!わかった?……おしまい!
「祈りきれない夜の歌」(『永遠の10分遅刻』収録)より
この場面は冒頭部分で父・功一が母・春子に自分がマリファナを吸ったせいで泰司が障害を持って生まれてしまったと語ることに対し、母・春子がそんなことをクヨクヨと語るよりも実際にお金を稼いで働く事が重要だと語る場面である。
ここではお金=実弾であると春子によって言われ、また涙も祈りも必要ではないとも言われる。
桜庭一樹作品の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の山田なぎさの言う“実弾”の借り元がこの「祈りきれない夜の歌」であるように僕は思う。
ここで重要なのが桜庭一樹が『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』という作品の中では、弾丸という事象が、多重なイメージで結晶化させている点である。
一つに、ミステリ(出典は知らないけど)における、塩で固めた弾丸から転じて“砂糖菓子の弾丸”という言葉を作っている。発想の経路から『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』一応ミステリの領分である事を示している。それに塩と砂糖の対は「海の領分の塩と砂糖の陸」とか「海に接する片田舎と都会の砂糖」とか読めるかもしれない。砂糖の方が少し弱いけど。
“実弾”にはまずお金という意味が込められている。それから発展して、生活力や現実に波及できる力という意味も持たせている。この言葉の場合“砂糖菓子の弾丸”と対をなしてもいる。
さらに“実弾”という言葉は、主人公のなぎさが中学を卒業したら自衛隊に入ることを志向している事をも示してる。文字通り、自衛隊に入って本物の“実弾”を撃つことも意味している。
“砂糖菓子の弾丸”はミステリ的領分ともう一つ、空想的弾丸という意味も持つ。体内に入ったら溶けてしまうような実態の無い弾丸である。その幻想、虚構。“砂糖菓子の弾丸”は、主に海野藻屑の嘘や言葉やミステリ的なトリックとして発される。空想が嘘などとして表出すると言ってもいいかもしれない。
簡単に言えば「お金としての実弾」「現実的な力・生活力」「ミステリとしての塩や砂糖の弾丸」「自衛隊としての実弾」「幻想・虚構の空想的弾丸」「嘘の言葉」という事である。
ちなみに、大人計画の演劇は名の通り「大人になるということ」という部分を基点にした作品が多い。特に集大成的作品の『キレイ 神様と待ち合わせした女』等はわかりやすく「大人になること」が描かれる。だからこそ、桜庭一樹が大人計画に視線をある程度でも注いでいる意味が読み取れそうである。また、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』にあるどぎつさは大人計画的な醜悪さを引き寄せているようにぼくは思える。
さらに、桜庭一樹と演劇の関係も小さくないのではないかとも思うが、それはまた別の場所で。
章中引用・抜粋等 補足
・インタビュー 作家の読書
http://www.webdokusho.com/rensai/sakka/michi54.html
・blog後天性無気力症候群
http://d.hatena.ne.jp/giolum/20070422#1177252089
二章 桜庭一樹作品と大塚英志作品の近似
はじめにことわっておくと今章で筆者は「桜庭一樹と大塚英志には共通する部分が作品に表れている」と思っている。そのあたりはこれから書く内容によって半分くらいは納得してもらえるかもしれない。
けれどもこれが「桜庭一樹は大塚英志の仕事を参照して作品を書いている」というレベルになると、そこまでは言えないんじゃないか?と思う人が多数だろう。
個人的にはけっこうそうなんじゃないかとなんとなく思っているのだけれど。まあ、どの程度の水位での話かは各人の判断に任せるとして、その共通部分を見て行きたい。
●『物語の体操』より
ある書店のフェアで桜庭一樹がいくつか本を挙げて行くというフェアが以前に行なわれた。たしか、池袋のジュンク堂だったか。
桜庭一樹が挙げた中にジャンニ・ロダーリの「ファンタジーの文法」(ちくま文庫)があり、桜庭がそれを挙げた理由としてプロップの「三一の機能」が収録されている本であったからと語っていた。(フェアのHPでそう載っていたように思うが現在内容は確認出来ない状態で、著者自身の記憶による)
ここでいうプロップの「三一の機能」は大塚英志の著書『物語の体操』の中でも登場する。というか、『物語の体操』の中でけっこう大きなエッセンスを担っているのがプロップの「三一の機能」でもある。そこに一つ、大塚と桜庭の間の繋がりを見出せないかと思う。
さらに、次の引用を読んでいただきたい。
キングの物語は森の奥に少年たちが「死体」を捜しに行って戻ってくる、というまさに「行きて帰りし物語」に他ならないのですが、その旅を通して「少年の日」を終えたはずの旅の仲間たちは、しかし、やがて小説家となる主人公の少年以外は彼らが軽蔑していた兄たちと同じように地元の街で飲んだくれる大人になったりあるいは死んでしまったりします。その大人になる旅を一様に経験したのに上手くいったりいかなかったりする、という対比がとてもほろ苦いわけです。ちなみ主人公の少年だけが何故、「大人」にちゃんとなれたのか、その物語上の仕掛けについては自分で探してみて下さい。ちゃんと「仕掛け」は配置されています。ただ、大人になりそこねた仲間たちを配すことで『スタンド・バイ・ミー』はその主題を明瞭にしている、といえます。
『物語の体操』より
少し長い引用だけれども、この部分が桜庭一樹の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の枠組みと似ているのではないか?。「大人になりそこねる仲間」がいる一方で「やがて小説家となる主人公」がいる、そういった部分において。
『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』での一文「だけど十三歳でここにいて周りには同じようなへっぽこ武器でぼこぼこへんなものを撃ちながら戦っている兵士たちがほかにもいて、生き残った子と死んじゃった子がいたことはけして忘れないと思う」という言葉と同じようなエッセンスを感じる。
また、キングの小説『スタンド・バイ・ミー』では“森の奥に少年たちが「死体」を捜しに”行く話である。「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」は終盤の展開では主人公なぎさとその兄友彦は蜷山へ海野藻屑の死体を捜しに行くことになる(死体を捜しに行くという事では飼犬の死体を捜しに行くという伏線が前にある)。
この、死体捜しという部分と成長物語(成長しそこねると死ぬ可能性もある)という二つの要素が共通項といえる。さらに言えば『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の英字題“A Lollypop or A Bullet”のロリポップ(Lollypop)もまたキングの『スタンド・バイ・ミー』には登場する。作中に登場する楽曲の名前が“Lollypop”であった。補足的に言えばLollypopはかなり有名な楽曲でもある。
大塚の著作を参考にしているとは言わないまでも、プロップの「三一の機能」や「死体捜し」や同じような部分に目を向けている。共通する部分が大塚と桜庭にはあるのだと言えるだろう。
上の図は大塚英志原作の漫画『北神伝綺』からの抜粋である。補足的に『北神伝綺』のストーリーを説明しておくと柳田國男とその弟子兵頭北神が関わる民俗学に関する偽史の物語である。偽史という所以は山人などオカルティックな材を一種実在のものとして扱うためである。姉妹編に『木島日記』があり、近時代作品では『くもはち』などの作品もある。
ここでの一ツ目は、ストレートに『赤朽葉家の伝説』に出てくる穂積豊寿を思わせる。少し、『赤朽葉家の伝説』を引用してみよう。
見覚えがあるような、ないような顔。それもそのはずだった。若き職工、豊寿の顔は忘れようにも忘れられない、あの幻、空飛ぶ一ツ目男その人であった。両手を開いて、ふわふわと空を飛んでいたあの男。幻の中で確かに、幾度も目を合わせた人だ。なつかしいような。感じたことのない相反する感情に、万葉は胸を押さえたまま黙っていた。
一ツ目男の名は、豊寿というのか。穂積豊寿というのか。
『赤朽葉家の伝説』頁59より
『赤朽葉家の伝説』での穂積豊寿と共通項がいくつか見出せそうな部分がある。『北神伝綺』の上記シーンでは「山の神に仕える司祭は一ツ目」であり「巫女と司祭は対偶関係」という説明がなされている。この視点で読めば『赤朽葉家の伝説』において、穂積豊寿と万葉との関係がただの恋愛関係ではない、司祭と巫女の関係ともみれる。それと同時に、何故、穂積豊寿の目が失われるかという因果を逆算的にも理解できる。対関係であるから目を失うのだ。
また、山が女人禁制の聖域とされるケースが日本ではよくある。それは「山が女性神である」とされる場合があり、女性神が男性を好み、同性の女性を嫌うから、という説がある。女性神の山と同化する巫女が、やはり同じ女性の万葉であるというのは納得がしやすいかもしれない。
『赤朽葉家の伝説』での万葉と穂積豊寿の関係をこうした呪術的、あるいは民俗学的な対偶関係としてみると面白い。
確かに、『赤朽葉家の伝説』と大塚英志の作品は、民俗学を同根とした話ではあるので、同じような共通項が見出せるのは当たり前なのかもしれない。もっと遡って、一つ目小僧の由来ともなったという天目一箇神が鍛冶神でもあることもまた関係深そうである。
●仕分け師たちとゴシック
こちらの引用を呼んでもらおう。
「GOSICK」においては、魔術的・オカルト的なものを旧勢力的なもの、脱魔術的・科学的なものを新勢力的なものとして対置することから、両者の対立軸が作り上げられている。そして、この対立軸こそが本シリーズを駆動しているのだということが、次第に明らかになってきた。
限界小説書評 第6回 笠井翔
「GOSICK X」/ 価値と倫理の交差点 より引用
限界小説書評の「GOSICK 」についての文章を引用させてもらった。簡単に言えば、「GOSICK 」というシリーズが魔術的・オカルト的な事象と脱魔術的・科学的な事象が対置された作品という見方が出来る。
書評内でも表されているが、ヒロインであるヴィクトリカは灰色狼を名乗り、“知恵の泉”の力によって混沌の欠片を再構成しそれを言語化する。“知恵の泉”がなすのは一般的に言えば“推理”と呼ばれる物であり、その“推理”が。“知恵の泉”というわけの分らないものを経てなされなければならない事、つまり脱魔術的・科学的なモノであるはずの“推理”が実は良く分らない魔術的・オカルト的な(言い換えれば神秘主義的とも言えるかもしれない)モノによってなされるということである。
この魔術的・オカルト的と脱魔術的・科学的な対置を頭に置くと思い出されるのが大塚英志の作『北神伝綺』であり『木島日記』である。
両方とも同じような作品だが、『木島日記』の方がより理解が易い気がするので、『木島日記』の内容を少し説明してみようと思う。
前作『北神伝綺』柳田國男が出てきたが『木島日記』では折口信夫が登場する。瀬条機関という組織に所属する木島は組織の「仕分け師」を務める。瀬条機関は人魚研究や人間並列化やムー大陸などオカルティックな物を研究する、一種魔術的・オカルト的な方面へ傾倒した組織である(この「瀬条機関」は後の『多重人格探偵サイコ』におけるガクソの前身である)。
そんな中、木島のする「仕分け」とはどういう行為なのかというと「あってはならないものを始末」する仕事である。作品中では「ロンギヌスの槍」や「クサナギの剣」と言ったオカルティックな存在を消している。
つまり、魔術的・オカルト的な存在を「仕分け」る存在として木島がいるのである。(大塚においても、このオカルトの「仕分け」という事柄はここ十年、五年の仕事の大きな動機になっている)
この部分はまた『GOSICK 』とも共通すると言えるのではなかろうか。『GOSICK 』という作品は論理や推理力によいって魔術的・オカルト的といわれるような事象を実際的事柄として明るみに引きずり出す。そういう作品だ。
つまり、『GOSICK 』でヴィクトリカが“知恵の泉”でやっていることも一種「仕分け」であると言えるのではないか。その点において、また大塚と桜庭の共通する部分が見えてくるのではないかということである。
章中引用・抜粋等 補足
・限界小説書評 第6回 笠井翔
「GOSICK X」/ 価値と倫理の交差点
http://www.so-net.ne.jp/e-novels/hyoron/genkai/006.html
・図画「北神伝綺」第一巻より
三章 生き抜けないという事、その視点で読む
前章で大塚英志を長々と引き合いに出したのは他でもない、大塚が『物語の体操』で示したキングの『スタンド・バイ・ミー』評。その評での視点で桜庭一樹作品を見ることが出来るのではないか、『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が読解出来るのではないか?と、思ったからである。
その視点とは「大人になる旅を一様に経験したのに上手くいったりいかなかったりする」「地元の街で飲んだくれる大人になったりあるいは死んでしまったり」すること。
簡単に言ってしまえば「生きるか、死ぬか」という軸が「砂糖菓子」を読むうえで、一つ、重要なファクターになっているのではないか。
●マルチエンド的な想像力
小説というメディアはすべて一本道ですが、ゲームというのは、いくつものルートに分岐していっていろんなエンディングに辿りつく。そして、マルチ・エンド全体が一つのイメージとしての物語を形成する。
『SFが読みたい!2006年版』次世代トークセッション「リアル・フィクション」とはなにか?
こちらはSFフェスティバルのトークセッションでの桜庭一樹の発言である。雑誌の方で読むと前後の繋がりから『ブルースカイ』の事を語っているように読めてしまう。けれども、僕はその場に居て、聞いていた感じだと「自作の小説」あるいは「地方都市シリーズ」を照準に語っているように受け取っていた。
ちなみに、「地方都市シリーズ」とは桜庭一樹の『推定少女』に始まる地方都市を舞台とした、一連の作品の仮称。それぞれ、少女7人の7作であると桜庭本人は語る。『推定少女』『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』『荒野の恋』等の作品がある。
仮に、桜庭が言うように「いくつものルートとエンディングの総体が作る物語へのイメージ」をマルチエンド的想像力と呼ぶとしよう。桜庭一樹の作品群はこのマルチエンド的な想像力を感じさせる。特に、地方都市シリーズ。
そういった想像力で作品を書く場合には、それぞれのエンドが「これはこっちでやったから、今度はこうしよう」という風に、なるべく重複をさけるようにはたらくのが一つあると類推する。(逆にメルクマール的に同じモノが再演・再登場もさせるように思う。)
少し、それぞれの結末を箇条書きにしてみる。
・二人主人公の片割れが死ぬエンド
→「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」
・二人主人公の片割れが消えるエンド
→「推定少女」
・二人主人公が犯罪を犯して警察に捕まるエンド
→「少女に向かない職業」
・二人主人公が生きのびておばあさんになるエンド
→「赤朽葉家の伝説」
個々の作品については細かく触れないが、それぞれに「生きるか、死ぬか」あるいは「ネガティブなエンドか、ポジティブなエンドか」の組み合わせの類型を作っているようでもある。
例えば、今までの作品で二人主人公が「死んだり」「消えたり」「警察に捕まったり(ネガティブな)」エンドを迎えているのに対し、『赤朽葉家の伝説』での二人主人公「万葉とみどり」は生きのびている。それも、思春期というそれぞれの子供にとって戦いの季節であるその時、「みどり」の兄の死体を山へ送るという行動をおこしたうえである。『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』では兄と渚は死んでしまった藻屑の死体を捜して。『少女に向かない職業』では生きぬくために死体を作った二人だ。
それぞれの作品でそれぞれのエンドがあり、その中で『赤朽葉家の伝説』での二人主人公のおちのつき方というのは、とても平穏な類型を一つ形にした風に感じる。(便宜的に二人主人公としたが『赤朽葉家の伝説』では特に「みどり」は主人公というほどでもない)
つまり、桜庭一樹の持つマルチエンド的な想像力は複数の作品同士にも微妙に連係するような働きを持つイマジネーションでもあると、簡略に言っておく。
横道にそれるが、このマルチエンド的な想像力が東浩紀の「ゲーム的リアリズム」とも関連するのではないかと個人的に考えている。
「地方都市シリーズ」や桜庭の相似な作品群同士で共鳴しあうメタ性は「ゲーム的リアリズム」のメタ性と近しい性質なのではないか、そう感じる。
さらに言えば「ゲーム的リアリズム」の語が出てきたファウストの連載の始まりが2003年3月。新書の「ゲーム的リアリズムの誕生」が2007年3月発売である。つまり語句が先行し、定義が数年のブランクの後にあきらかにされた概念である。そのブランクの間に「ゲーム的リアリズム」という語から推察された結果がこの「マルチエンド的な想像力」なのではないかとも思う。
この語句先行のブランク期間で、語感のイメージで推察されたのではないかというのは「リアル・フィクション」の場合でも同じかもしれないとも。
●『砂糖菓子の弾丸を撃ちぬけない』を読む
「あぁ、海野。生き抜けば大人になれたのに……」
絞り出すような声。
「だけどなぁ、海野。おまえには生き抜く気、あったのか……?」(P199)
あたしは出会った海野藻屑をあっというまに失い、神である友彦を失い、気づくとあたしの周りには、甘ったるい弾丸を撃つ人間は一人もいなくなった。藻屑は消え、友彦は文字通りの実弾を撃つ日々だ。(P201)
今日もニュースでは繰り返し、子供が殺されている。どうやら世の中にはそう珍しくないことらしい、とあたしは気づく。生き残った子だけが、大人になる。あの日あの警察署の一室で先生はそうつぶやいたけれど、もしかしたら先生もかつてのサバイバーだったのかもしれない。生き残って大人になった先生は、今日も子供たちのために奔走し、時には成功し、時には間に合わず。そして自分のことについては沈黙を守っている。
あたしもそうなるのかもしれない。
あたしは、暴力も喪失も痛みもなにもなかったふりをしてつらっとしてある日大人になるだろう。友達の死を若き日の勲章みたいに居酒屋で飲みながら憐情たっぷりに語るような腐った大人にはなりたくない。胸の中でどうにも整理できない事件をどうにもできないまま大人になる気がする。だけど十三歳でここにいて周りには同じようなへっぽこ武器でぽこぽこへんなものを撃ちながら戦ってる兵士たちがほかにもいて、生き残った子と死んじゃった子がいたことはけして忘れないと思う。(P203)
『砂糖菓子の弾丸を撃ちぬけない』桜庭一樹
少し長いこと引用してみた。理由は、今まで説明してきたことのエッセンスが、このあたりの引用部につまっているように僕が思うからである。
ちなみに、半分以上テキストが進んでいるこの部分で告げるが、このテキストは元の作品を読んでいることを前提としている。
話がそれた。
前章では「地方都市シリーズ」の作品群でマルチエンド的な想像力がはたらいている、と示した。だが、このマルチエンド的な想像力という『砂糖菓子の弾丸を撃ちぬけない』の作品内でもはたらいているようにみれる。
“生き残った子と死んじゃった子がいたことはけして忘れないと思う。”という部分がそう感じさせる。また、「先生」もまた「あたし」と同じような「サバイバー」だとも考える。その「先生」もまた子供のために行動して「時には成功し」「時には間に合わず」している。このような部分は「生」と「死」という結果がマルチに並列されているように読める。
そういう視点でこの作品を見るとまた違った見え方がしてくる。「海野藻屑が死んでしまった、悲しい」というだけの話ではない。
海野藻屑だけではなく、山田なぎさやその兄・友彦についても「生」と「死」に「あるいはそれ以外」の結果が待っていた可能性をも並列させている。
そのうえで、いまさらながらではあるが『砂糖菓子の弾丸を撃ちぬけない』の“砂糖菓子”の意味を本文引用して整理してみたい。
生きることに直接関係ないこと――人生の意味とか、愛の正体とか、世界の仕組みとか――について悩むのは、中世とかだと貴族階級だけの特権だったらしい。こないだ兄から聞いた。(P14)
「彼女はさしずめ、あれだね。“砂糖菓子の弾丸”だね」
「へ?」
「なぎさが撃ちたいのは実弾だろう?世の中にコミットする、直接的な力、実体のある力だ。だけどその子がのべつまくなし撃っているのは、空想的弾丸だ」(P37)
ぼくはかつて自分のブログで“砂糖菓子”の言葉を「幻想」や「虚構」などと称したりもした。まあ、大雑把なイメージはそんな所だろう。「生きることに直接関係ないこと」実体の無い言葉、そんなモノが“砂糖菓子”であるとしよう。
『砂糖菓子の弾丸を撃ちぬけない』の作品内においては、“実弾”を象徴するのが山田なぎさである。そして“砂糖菓子の弾丸”を象徴するのが死んでしまった海野藻屑であり、なぎさの兄・友彦である。
実は重要なのが兄・友彦もまた“砂糖菓子の弾丸”を象徴する存在であるということである。兄・友彦は海野藻屑と違い、“砂糖菓子”を抱きつつも「生き残った」例の一人ということにもなる。結果どうなるかについて、兄・友彦には「死」や「生」やその他の可能性も実はあった。
それは、作品内のレベルにおいてマルチエンド的に「生き残った」類型を桜庭一樹が用意したように僕にはみえる。
もちろん、兄・友彦が一貫して“砂糖菓子”を抱きつづけていたわけでは無いことは、作品内を読めば気づく事ができる(逆に、海野も一貫して“砂糖菓子”を撃ち続けていたわけではない)。ラストでは妹のなぎさを助けるために外へ出て、神性とでも言うべき属性が抜け落ちて、なぎさの言う「実弾」をなぎさの代わりに自衛隊に入って撃つことになる。
だけどあたしはそれ以上は考えないことにした。なにも見ていない。そう思いながら知らんぷりを決めこんだ。あたしは“実弾”にならないようけいなことには関わらないのだ。一生そんなものは見ずにいきていくのだ。死ぬまでずっと。(P17)
なぎさはというと“実弾”主義である。現実に関わりのある実体を持った力。直接的な力。それを標榜し、そのために中学を卒業したら自衛隊に入り“実弾”を撃つと公言する。
藻屑や兄・友彦からしたらなぎさはエキセントリックな部分や異質な部分が少ない少女である。それに加えて「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」である“撃ちぬけない”し、生きぬけない。そう小説の題名に書かれている。そのことから、なぎさ一人が「安全圏」に入っているように見える。が、それはそうではない。
主人公であるなぎさもまた、藻屑や兄・友彦のように危うい場所に立つ少女でもある。
兄は現代の貴族なのだと思う。(P32)
それは、そう……
兄の言葉を借りれば、貴族のお菓子。腹の足しにならない砂糖菓子だったけれど。(P18)
なぎさ自身、兄・友彦について“砂糖菓子”を抱いている存在だと理解している。貴族の腹の足しにならない“砂糖菓子”であり、兄は現代の貴族だと思っている。
前出のP17の引用では“実弾”にならないものには「関わらない」し「死ぬまでずっと」「見ずにいきていく」と語っている癖に、兄・友彦を否定する事はない。
「おにいちゃんのことは、あたしが一生、面倒見るから」(P35)
むしろ、積極的に肯定している。これはとても大きな矛盾であり、大きな歪みである。
彼女にもまた危うく「死んでしまうかもしれない」という結果があった可能性がある。
“砂糖菓子の弾丸”という言葉を単純化して「幻想」や「虚構」と簡易にしてこの作品を眺めてみると、なぎさが過剰に「幻想」や「虚構」を自分の中から閉め出している事が見て取れる。だがしかし、全く「幻想」や「虚構」を象徴するようなモノを持たない人間というのも歪である。
なぎさが特異であるのは自分の中の「幻想」や「虚構」の部分をも兄・友彦に預けてしまっている所にある。預けた分だけ兄・友彦の“実弾”を背負っているのである。
預けてしまっているというのは状況証拠的ではあるが、なぎさと兄・友彦の兄妹関係を対関係としてはみえる。“実弾”の「現実」を100%背負ったなぎさと、“砂糖菓子の弾丸”という「幻想」や「虚構」を100%抱いた兄・友彦との対である。
● “砂糖菓子の弾丸”は本当に生き抜けないのか?
なぎさと兄・友彦が対関係としてみると見えてくるものがある。兄・友彦が “砂糖菓子の弾丸”を手放すことによって、神性や美貌を失い、その代わりに生きる現実的な力を獲得したことは理解しやすい。 だが、どうだろう。対の逆側であるなぎさは「何を手放して、何を獲得したのだろうか?」。
あたしはそんな嚇しに臆していないことを証明するために、大きな声で言った。魂はお金のことなんかで真実を曲げたりしないのだ。(P155)
生きることに直接関係ないこと、「人生の意味」とか「愛の正体」とか、そして「魂」とか。
この物語終盤では“砂糖菓子”である「魂」が“実弾”である「お金のことなんか」よりも勝るモノだと。少なくとも、なぎさの中ではそのように変化しているのである。
“砂糖菓子”が象徴するような「幻想」・「虚構」が量的な事象であり、譲渡や獲得が可能であるとするのならば、なぎさと兄・友彦の対関係で片一方に偏っていたソレが、再分配されたともいえる。 つまり、この小説は主人公の山田なぎさが“砂糖菓子”を許容する話としても読めるのである。
では、三人それぞれの結果を箇条書きにしてみよう。
・幻想・虚構性では生き残れないという話
→「海野藻屑」
・幻想・虚構性を失う話(あるいは失い、代わりのモノを得る話)
→「山田友彦」
・幻想・虚構性を得る話
→「山田なぎさ」
この、三者三様な結果。それぞれの関係を鑑みて(なぎさと兄・友彦)浮かびあがってくる類型的な部分が、作品内において働いているマルチエンド的な想像力である。
忘れない。
遠い日の戦死者名簿の中に、知らない土地の知らない子たちの名前とともに、ひっそりと、海野藻屑の名前も漂っている。藻屑は親に殺されたんだ。愛して、慕って、愛情が返ってくるのを期待していた、ほんとの親に。
この世界ではときどきそういうことが起こる。砂糖菓子でできた弾丸では子供は世界と戦えない。
あたしの魂は、それを知っている。(P204)
「砂糖菓子でできた弾丸では子供は世界と戦えない」「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」し、「生き抜けない」そう山田なぎさは理解する。
けれども、「忘れない。」のである。“砂糖菓子の弾丸”を撃ち続け、そして、果てには死んでしまった海野藻屑を「忘れない」。“砂糖菓子の弾丸”は現実には通用しないかもしれないけれども、それでもそれを撃ち続けた子供を「あたしの魂は、それを知っている。」のである。
「魂」という“砂糖菓子”の言葉を用いることにより、2つの意味が同時に肯定されているのである。「生き抜けない、通用しない」モノであっても、山田なぎさの中に“砂糖菓子の弾丸”が存在しているのである。
■補
まあ、これがぼくの小説『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』の現時点における「読み」であり「読解」である(一応読本とあるので)。数年前に自分のブログで「幻想」・「虚構」をキーに記事を書いたが、今回は、以前の考えからいくらか発展して書かせてもらった。以前、気になっていたのが『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』は「幻想」・「虚構」を否定した小説なのか、どうか、という事である。以前の段階では、結論が出せなかった部分であったが、今回はこういう結論をぼくの中で出すことが出来た。
公平を期して言えば「幻想」・「虚構」は結果的に否定されたわけではなく、肯定されたと見るのは、このテキストを書いているぼくの性格上の効果でそのように導き出してしまった、という可能性がある事を言っておく。
まあ、桜庭一樹の作品を見通していると、「幻想」・「虚構」を積極的に取り入れている作品が多くあるようにみえるので、あながち間違いでもないだろうと思う。それとは別に、登場人物の行き着く先がどちらへ転ぼうとも桜庭一樹はあまり気にはしていないかもしれない。「良い」エンドも「悪い」エンドも、どちらも想像出来てしまうので。
また、後半になると「マルチエンド的な想像力」がキーワードとなる。補足しておけば今回「マルチエンド的な想像力」には2種類のそれが登場している。
・「地方都市シリーズ」作品群レベルにおいての
マルチエンド的な想像力
・「砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない」作品内レベル
においてのマルチエンド的な想像力
まあ、この二つである。
「地方都市シリーズ」レベルにおいては、それはメタ物語性が宿っているのだとぼくは思う。それも、キャラクターだけにではなく、その結果結末の部分において。「地方都市シリーズ」はそれぞれのエンドを概覧して、その総体としてみるみたいな。その意味では「ゲーム的リアリズム」とどこかで接続できるかもしれない、推定だけれど。
作品内レベルにおいては「生きるか、死ぬか」を軸にしたところで、マルチエンドな部分がくっきり際立っただけであり。他の作品でも見られる凡庸な要素なのかもしれない。
その部分では、先頃のSFマガジン2007年7月号で発表された宇野常寛氏の評論「ゼロ年代の想像力」で発せられた「決断主義」とも接続して考えることが出来るかもしれない。
「マルチエンド的な想像力」とはまあ、そういう2つの部分がこの作品ではあったと。言葉のちゃんとした定義をせずに論を進めてきたがまあ、そのあたりは雰囲気でなんとなく読んで下さい。まあ、そういうわけで今回はこのへんで終了。また次回。
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